怪しすぎるので、まずは少し整理が必要だろう。
差別は、分類することで起きる区別に基づき、それらの差を顕著にする表現である。
例えば、国籍・人種・出身・宗教・思想・職業等々。それぞれに区別が有り、その差は現実にある。
宗教にはそれぞれの戒律の違いがあり、人種・国家にはそれぞれ風習や戒律・法律など、ルールの差がある。
ここ一年で聞き慣れない「ヘイトスピーチ」が話題になっている。正直、マスコミの言う事がよくわからないのだがどうやら「差別表現」ではなく「憎悪表現」と言う趣旨らしい。
それぞれの差を表現するのは何も不自然な事ではない。むしろそれぞれの違いを理解し合う事は共存する上で必要な事なのだ。それらを隠す事の方がどれだけ不健全か。
しかしそれに上下と言う評価を付け加えると差別的表現となり、憎悪を付け加えるとヘイトスピーチとなり、善悪評価を付け加えると社会的排除対象になる・・と僕は一応整理する。
実はもう一つある。好きか嫌いかの評価。しかし、これにとやかく言う事(制限)が出来るのだろうか。巨人ファンだからとか・・日ハムファンだとか。ラーメン好きとカレー好きの対決とか・・。バカバカしいので、この評価は別物だろう。
しかし「報道の言うヘイトスピーチ」にはこれが一番大きく関わっている要素ではないかと思う。
確かに罵詈雑言は聞き苦しいが整理して聞くとこうなる。
「お前らなんか嫌いだ~!」にあくどい表現の嫌いな理由のおまけが付く。
そうすると当然「何言ってんだばかやろ~!」の応酬となる。
これ、どうなの?規制すべきのレベルの話か?
「表現の自由」を目の前において、一体何を規制できるのだろうか。
憎悪とは平たく言うと好き嫌いの範疇だろう。それを評価して規制してもしょうがない。
「ヘイトスピーチ」と言う言葉を持ち出して、人権問題に結び付ける事に無理がある。
もし、他者の自由という平等な権利を奪っているのであれば、制限されるべきだろう。
だが、現状はそうか?
ならば、批判と言う範囲ならばどうか。
例えば「オウム真理教」を批判するのはどうだったか。
信者の自由を損なうのでやめるべきだったのか。
あのいわば憎悪的報道で「オウム真理教」を周知させ、その後善悪の評価を付けて報道し、社会的に排除できたではないか。
あれは、報道としては間違いだったのか?
報道が言うヘイトスピーチはそれを報道が都合よく使い分けているだけ。
むしろ、こちらは報道がそのような使い分けに関してどのような見解を持っているのか、聞きたいぐらいだ。
報道側が曖昧すぎる。
憎悪と言う感情は規制すべき事なのか?
それを表現してはいけないのか?一体、何を根拠にするのだろう。
それは法の分野ではなく、相互理解の範疇だ。
言葉通り、一方に科せられる問題でもない。これは「相互」の現状が現われているだけなのだ。
勿論争いや憎悪は双方を消耗させるだけ。良い結果はもたらさないだろう。
だが、それに至った原因は双方周知されているのか。理解できたのか。
もはや、取り繕う事では収まらない。良くも悪くも相互理解するしか道はない。
ヘイトスピーチ云々の背景にも、大きく関係している「報道の自由」を言うのであれば、まずは「報道倫理規定(
※)」を作ったらどうだ?これらの状況を作った原因は「報道の自由」ではなかったか?(いや、いい加減に作れよ、迷惑だから)
自分達の行動を規定出来ない者に自由は与えられない。
報道はいまだに規定できてないだろ?
それも勝手気ままに、さしたる根拠もなくやっているからこう言う事になる。
「報道される側」「報道を受ける側」に責任転嫁するのは本末転倒。
この報道側が作り出した、「ヘイトスピーチ」の問題提起の結果は、結局それは報道による弾圧になる。
※実はまだ無い。(多くの方は有ると思われているでしょうが・・)
放送とか新聞などの分野にはわかれている(分けているのがオカシイ)が倫理委員会と言った業界内部の申し合わせと言った程度。その結果が朝日の慰安婦捏造とかいろいろと・・有名無実の倫理委員会。
新聞倫理要綱 だから、新聞は正しいという規定 ・・・
遵守していればね。